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2011年 06月 10日

人に歴史あり その1 母の家族のルーツ

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義姉のローズが友人のリンダとファミリーツリーを作っている話はよくここでしているかと思うのですが、今までは「へえ~そうなんだ」と感心して聞くことはあっても、自分の家族の歴史について調べてみようなんて気にはなったことがありませんでした。

それが突然自分の家族の歴史について興味を抱いたきっかけは今回起こった地震。
人はどんな場面でいつこの世からいなくなるか分かりません。
それは決して他人事ではなく、自分にも起こりうること。

日本を遠く離れて生活している私だっていつ何時そんな場面に遭遇しないとも限りません。
そこでふと思ったのが、もしもそうなった時残された子供たちは自分の日本人としてのルーツをまったく知ることなく生涯を終える可能性があるということ。

日本に住んでいればともかく、遠く離れたイギリスからわざわざ自分のルーツや親戚探しをしに行くのは大変です、ましてや何の手がかりもないまま探すとなれば至難の業に相違ありません。

そうなる前に何かしら私の側の家族の歴史について書き残そうと思い立ちました。
幸い両親が遊びに来てくれる事が分かっていたので、この際色々聞くから、と前もって伝えておく余裕もありました。



私の手元のノートには覚書として箇条書きにしたものがあるのですがきちんとした文章にまとめた訳ではないので、ここに面白かった幾つかのエピソードを自分と子供たち用に書き残しておこうと思います。
ただし子供たちが将来きちんと日本語を読む能力がある場合のみに限られるのですが(汗)

以前ちょこっと書いたのですが、私、そして両親、そのまたご先祖さまに至るまで我が家は佐賀県の唐津の出身です。
少し歴史の授業のような話になるのですが、唐津藩と言うのは外様が多い九州の中で唯一の譜代大名が治める地でした。
これは豊臣秀吉の時代、朝鮮半島出兵の為に唐津の西側の海沿いに名護屋城と言う最前線基地を築いた事から始まります。
唐津は名護屋のバックアップとして、各地の大名が集結していた地だったのです。

その名残として父から聞いたのは「かつて唐津城下の町の家々はどの大名家所属の武士が住む家なのか、一目で判別出来るように建てられていた。家の周りが白壁なのは豊臣家、檜が黒田家、そして小笹が小笠原家など。ただし、もう現在ではそのような家はほとんど見ることが出来ない」と言う話でした。

そんな海の向こう側の脅威に対抗するための重要拠点としての唐津が譜代大名が治める地になったと言うのも納得がいく話です。

江戸時代、外様に対しては重い年貢を納めるよう指示していた徳川家も譜代に対しては優遇措置を取っていました。
そのお陰で唐津という土地は九州という田舎にしては珍しく、財政に余裕があった為、お茶や焼き物と言った文化や技術が発達します。

朝鮮出兵の際、豊臣秀吉が朝鮮半島から陶工たちをこの地へ連れ帰った事にも由来しています。

と言うわけで唐津には唐津焼(これは唐津は土が良かったので土焼きがメインになりました)伊万里、有田焼き(こちらは磁器の土が質が良かったので磁器焼きがメイン)の技術が発達したのです。

と前置きがかなり長くなりましたが、これらの歴史を踏まえながら我が家の歴史を語る事でより理解が深まるのかな、と思います。

まずは私の母の側のエピソードから。

母はあまり自分のルーツや家族の歴史について興味がないので、あまりよく知らず多くの話を聞くことは出来ませんでしたが、それでもなかなか面白い話が聞けました。

母の祖母みさ、の実家は当時(明治中期の頃と思われます)唐津の町でも一番大きな豆腐屋さんで彼女はとても裕福な家のお嬢様だったのだそうです。
結婚するまで一人で着物を着たことがなく、つねにお付の下女が着物を着せてくれていたのだとか。
そんなみさが恋に落ちたのが宮大工だった母の祖父伊勢太郎でした。

当然両親は大反対。
娘にはそれなりの家への嫁入りを、と考えていたところにどこの馬の骨(?)ともしれない祖父が現れたのですからたまったものではありません。
ところがみさは自分の意思を通して伊勢太郎と駆け落ち同然で結婚してしまったのでした^^

まるで時代劇を見てるみたいな話ですが、これが本当だったと言うのだから面白い(笑)

その母の祖母みさですが、その後年、だいぶ年を取ってからですが、戦後しばらくして友人に頼まれ当時のお金にして60万円(現在の貨幣価値にしたら600万円程度)を貸したのですが、結局その人は1円も返してくれなかったそうです。
その時にはすでにみさの長男(母の父)が家を継いでおり、家の敷地内で整体士を7人も雇って自身も鍼灸師で手広く商売をしていたお陰で生活に困る事はまったくありませんでしたが、みさは敷地内の端っこに小屋を建てて豚を数匹飼っていたそうです。

この豚ビジネスが思いのほか良かったらしく、母は子供の頃祖母のみさからよく菓子パンやお菓子など買ってもらっていたそうです。

大店の箱入り娘だったみさがその後豚ビジネスをするあたり、やはり商売人の血が流れていたのかなあ、なんて思いました。

そして母の祖父、伊勢太郎ですが、この人は宮大工で主に京都で仕事をしていたようです。
大きな仕事としては京都西本願寺、唐津の近松寺(近松門左衛門のお墓がある)などがあると母が言っていたのですが、それ以上のことは分からない、という話でした。
もし母の母(私の祖母)が生きていたら、家の歴史について色々知識があったので、もっとより詳しい話も聞けたのに、、、と残念がっていました。

この伊勢太郎、明治生まれのおじいちゃんにしては随分とハイカラな人でトーストを食べ、チーズが大好物だったそうです。
宮大工の腕を生かして作ったちゃぶ台に自分用の秘密の引き出しを作りつけ、その中にお箸1膳とチーズが入っていたのだとか。
子供の頃の母が「いつもおじいちゃんは何を食べてるんだろう」と気になってこっそり引き出しを開けてみたら、オレンジ色のくさ~いチーズが入っていて驚いたそうです。

戦後間もなく、まだ物資が豊富でもなかった頃、伊勢太郎はどうやってチーズなんて代物を手にしていたのだろう?と疑問に思ったのですが、母曰く「多分お茶室のメンテナンスで出入りしていたお茶の先生からの頂き物ではなかったかと思う。お茶の先生の旦那さんは船乗りでいつも珍しい外国の品物を持ち帰っていたそうだから」という話でした。

最後に私がカトリックに改宗した縁を深く感じた小話。

母の実家の真向かいに人が一人通れるほどの私道を挟んで昔からカトリックの教会がありました。
ある時母の母(私の祖母)が夢で白いキツネがその私道を歩いているのを見たのだとか。
それからすぐにその教会から「牧師館を買い取っては貰えまいか」と依頼がありました。

カトリックの教会には代々イタリアから牧師様が赴任していらしていたそうなのですが、その家をもう使わなくなってしまったので、買い取って欲しいという話だったのです。

丁度そんな夢を見たところだったので、家族もすぐに承諾し買い取ったそうです。
家は母が学校に行っている間にいつの間にか実家の敷地内に移築されていたのだとか。
実際に見ていないので分からないけれど、多分土台の下にコロでも入れて引っ張って来たのだろう、という話でした。

白いキツネの正体ですが、これがまた不思議な話で、母の実家には伊勢太郎が京都から戻って建てたお稲荷さんがあります。
これは京都で働いていた縁で多分伏見稲荷のおキツネさまではないか、と言う話なのですが、このお稲荷さんがどうやら祖母の夢の中に出てきたらしいのです。
その後その家を地元の学校の校長先生一家に貸して家賃収入でますます家が潤った、と言う話でした。

長くなったので、父方の話はその2にて。
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by jamieoliverlove2 | 2011-06-10 00:00 | Family History


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